石の裏のダンゴムシ

みんなの安全基地。生きづらさを感じている人のための居場所です。

可能性を捨てなければ無力じゃないと思う

 

こんにちは、つっきーです。

関東では今日から明日にかけて台風6号が接近するようで、天気は良くないみたいですね。せっかくの土日なのにと思わなくはないわけですが、こればかりはどうしようもないです。明日は夕方からダンゴムシの4周年パーティーなので、それまでには天候が回復してほしいですけどね。

さて、今日のブログはひとりごとです。一言に「生きづらさ」といっても、その性質とか根本原因は異なってたりするよなぁと思ったので、その辺のことを書いてみたいと思います。

 

生きづらいのは「社会」?

大きく分けると、生きづらさには2種類あると思います。1つ目は生きづらさの原因が「社会」に帰結されるもの、そしてもう1つが生きづらさの原因が「自分」に帰結されるものです。どちらにしても対処は難しいですけど、そもそもその性質が全く異なるということを認識する必要はあるのかなと思います。

まず、生きづらさを感じる原因が社会の在り方だという場合、それを変える/改善するというのはかなり骨の折れることだと思います。たとえば、絶対参加の飲み会やイベント事、なんだかよく分からない無意味としか思えないルールやマナー、最近特に話題になりやすい各種ハラスメントなどなど、半ば強制的に自分の意に反する言動を要求されることなんかは生きづらいと感じる要素だと思います。

こういう場合、大雑把に言えば敵は自分の外側にいるわけなので、自分ではどうしようもない部分が必ず出てきます。他者の意識や組織のルールを変えるなんて、そうそう簡単にできるわけでもないですからね。だから自分にできる範囲を見定めて自分から動いてみることで、「それに従わなければならない無力な自分」を脱却しようとすることはできます。それだけでもだいぶ気持ちは変わるような気がします。

生きづらいのは「自分」?

より根が深いのは生きづらさの原因が自分、特に「自分の思い込み」にあるという場合ではないかと思います。そもそもこの場合、自分がそう思う・考えるから生きづらいのだということに気づいていなかったりします。いや、気づいていても見て見ぬふりをするから事態は深刻なのです。

ダンゴムシの会で参加者の方々のお話を聴いていると、各自が抱える生きづらさにはいろんな背景があるということが分かります。家族関係や学校での友人関係といった幼少期から置かれた環境とそのときの影響が、大人になっても続いているということがとても多いようにも感じます。

いろんな方の生きづらさと背景をひとまとめにするのは本意ではないんですけど、ここは大雑把にまとめさせていただくと、どこか「昔からこうなのだから今後も自分は変わらない」「どうせ自分(の人生)は変われない」という想いがある方は多いのかなという印象です。「人生は苦しいものだ。だって自分の人生はこんなに苦しかったし、それはこれからも続くのだから」と未来のことまで断言していたりします。

もちろん、大変につらい想いをして生きてこられた方に対して、赤の他人がどうこう言う権利はありません。「それは大変でしたね」と共感するしかないです。でも未来については、今この瞬間から自分で変えていける可能性が残されてるのではないかとも思うのです。

自分の可能性に蓋をしない

ダンゴムシに限らず、生きづらさなどのテーマで集まるコミュニティが結構ありますけど、おそらくそういったコミュニティが運営されてるのは、ちょっとでも生きづらさが軽減されて、それぞれがより良い人生を歩んでいけるようなきっかけになってほしいという想いがあるからだとぼくは思ってます。

そしてそこに足を踏み入れてみるということは、自分の中には「生きづらさを軽減したい」「人生を変えるきっかけにしたい」みたいな想いがきっとあったからでしょう。だからもっと自分の可能性に目を向けて、自分で変えていけるんだという自信を持ってもらえたら、本当に変わっていけるんじゃないかなって思うのです。

 

お知らせ

明日28日開催の4周年記念会、ただいまをもって参加希望を締め切らせていただきます。「ちょっと待って、参加したいです!」って方は至急ご連絡ください。

dango64.hateblo.jp