「嫌われたくない」が嫌われる疑惑。
こんにちは、つっきーです。
明日で3月も終わりますねぇ。たしか新しい元号の発表も明後日のはずですし、4月から新しい生活(進学とか就職とか転属・転勤とか)が始まるって人は多いでしょう。ワクワクしてる人もいれば、不安を感じてる方もいらっしゃる感じかと思います。
さて、今日はひとりごとです。「嫌われたくない」と思って振る舞ってしまうという方は結構多いと思いますが、タイトルの通りでそんなことをテーマにしてます。自分を大切にしながら自分勝手にならないような、そんなバランス感覚を養いたいものです。
「いい人」の仮面
人間関係があまり上手にできないなぁと感じてる方の中には、嫌われたくないからいい人を演じて、自分の本性を見抜かれたくないと思ってる方も結構多いのかなぁと、そんな感じがしてます。「自分もそうだ・・・」と思い当たる方、いらっしゃるかもしれませんね。
いい人を演じるとか、もっと根源的にいい人だと思われたいといった願望(?)は、気持ちとしてはみんなとてもよく分かるところだと思います。ぼくもすくなからず、そういう側面を持ってると思います。でも、実際に目の前の相手がそういう人物で、そのように考えていたり振る舞っていたりする様子を想像してみると、これが意外とあまり効果があるとは思えないことも多い気がするんです。
その前に言っておくと、いい人を演じることって結構大変だし、相手の思い通りに動かざるを得なくなるとか、単純にすごい気疲れするとかあるので、それだけでもあまり望ましいものではないのではないかなという気もします。演じるのをやめてしまえば、実は損してるって部分を減らすことができそうですからね。
演技はだいたいバレる
それで、いい人を演じてどれくらい得するのかって話ですけど、そもそもいい人を演じていい人だと思われ続けるってかなり難しいことだと思うんです。どうしたってボロが出てきてしまうし、よっぽど高等な演技でなければその思惑が相手に伝わってしまうものです。
そんなわけでついうっかり本音の部分がどこかから漏れて(あるいは相手に気づかれて)しまうわけですけど、人って意外とそういうところに目敏いし、なんならそういう場合のほうが相手に悪い印象を持ったりしやすいような気すらします。「なんだこの人、自分のことだけじゃん」というのが、かなりの減点材料になってしまうのかもしれません。嫌われたくないという思いが嫌われる原因になってしまうという、とても悲しいパターンです。
嫌われる勇気とか言うけれど
嫌われる勇気って、同名の有名な本もあるしフレーズとしても結構見聞きしますよね。ぼくはあの本を読んだことがないんですけど、文字通りに受け取ると「嫌われても構わないという心構えで~」的なことなのかなと推測します(違ってたらすいません)。
まぁでも、言うは易し行うは難しだし、嫌われてもいいっすわ~ってテキトーに無責任に振る舞ったら嫌われるでしょう。嫌われないに越したことはありません。要するに、どうしても守りたい(信念や価値観などの)部分は主張すること、そうして他者と衝突してしまうことについては覚悟して、その結果として嫌われてしまうことになったとしても、それ以上に大切な自分の一部を守れますってことだと思うんです。
わりとどうでもいいことについては上手く合わせ、どうしても引けないと感じた部分についてはきちんと主張する。もちろん、そのときの言い方によっても与える印象は変わってくるので気をつけるべきだとは思いますけど、そうやってより柔軟に歩調というか距離感を保つことは、メンタル面含め人間関係で必要以上に消耗しないために必要なのではないかなぁと思うのです。
お知らせ
明日31日開催の3月会、ただいまをもって参加希望を締め切らせていただきます。「ちょっと待って、参加したいです!」って方は至急ご連絡ください。