石の裏のダンゴムシ

みんなの安全基地。生きづらさを感じている人のための居場所です。

嫌われる要素とか理由について。

 

こんにちは、つっきーです。

沖縄の方では先日梅雨入りが発表されたり、今年はちょっと梅雨が長引きそうだぞーなんて話も見聞きしますけど、じめじめして雨ばかりで傘が手放せない時季って嫌ですよねぇ。雨用に靴とか買った方が良いかなぁなんて考える今日この頃です。

さて、今日のブログはひとりごとということで、ぼくが自分なりに思うことを好き勝手に書いてみたいと思います。他者に好かれる(好かれたい)とか嫌われる(嫌われたくない)とか、そういう話です。興味があればどうぞ。

 

「嫌われたくない」って無理な話だと思う

ダンゴムシに参加される方の中には、「嫌われたくない」などと思って自分を(実際以上に)良く見せようと頑張ってしまい、その結果消耗したり、頑張りが実らず嫌われてしまったりということに生きづらさを感じる方がいらっしゃいます。まぁ生きづらいとは感じないまでも、大なり小なり嫌われないように振る舞うのは誰だってあるでしょう。

でも嫌われないように振る舞ったところで、性根というか本心というのは日々の細かな言動の中に表れていて、そういったところから違和感のようなものを相手が感じてしまうというのは往々にしてあるように思います。優しい人と、そう見えるように振る舞っている人とでは、やはり何かが違うのです。その微妙な違いについて、人は意外と優れた嗅覚を持っているものです。振る舞いで半ば誤魔化すことには、限界があるような気がします。

嫌われる要素や理由は無限にある

ぼく自身あまり「嫌われたくない」とか思わないし、それで気を病むこともない人間です。嫌われる理由なんてたくさんありうるし、そもそも簡単に作れてしまうものだと思うわけで、嫌われる要素を0にするなんてまず無理なんだから、ある程度は無視して良いのではないかと考えています。

誰かを嫌うのに、説得力のある客観的な説明ができるかと言えば、必ずしもそれができるとは言えないでしょう。そもそも「嫌い」は1つの感情だと思うのです。各人が各々の価値判断の基準でもって決めているのが普通です。つまり、そこには自分の都合が入り込む余地が大いにあるわけです。何なら勝手な妄想まで付け加えて、「あの人は~だから嫌い」なんて理屈を作り上げることもできます。

そういうわけなので、十人十色ではないけれど、他者の数だけ嫌われる理由というのはできうるのではないかと思うのです。あること・ないことごちゃ混ぜになって、もっともらしい理屈として練り上げられ、他者(そして自分)に向けられるのです。

実はお互い様だったりする

しかし、嫌われたくないと強く思っている人が、他者を嫌いにならないなんてことは滅多にないように思います。「自分のことを嫌う人は許せない、そういう人は嫌いだ。」というわけです。気持ちは分かるけれど、ちょっと身勝手な気もします。

そう、意外とお互い様だったりするのです。どちらが先かは分からないけれど、お互いに「なんだあいつは気に入らねぇ」なんて思っています。自分のことは棚に上げて、他者から受けた被害については人一倍敏感に反応し、「不当だ!」と声を上げるのです。まぁそういう身勝手さも、やはり嫌われる要素になってしまうだろうとも思います。

一致しない部分や同意できない部分があっても、「違うから無理」と自分本位な線引きをするのではなく、それを「ここは違うね」と認めて尊重すること。「(自分が)嫌われてないかな?」ではなく「(相手が)傷ついてないかな?」という視点で考えること。そのように他者と接するよう意識すれば、相手に不快な思いをさせることも、いたずらに関係を悪化させることも、減るんじゃないかなぁと思います。

 

お知らせ

26日(日)開催の5月会、参加希望を受け付けております。参加希望の方は以下を参照の上、25日(土)正午までにご連絡ください。

dango64.hateblo.jp